| ヨーガの起源は、四〜五千年前のインダス文明にまでさかのぼることができる。インダス河流域のモヘンジョダーロ、ハラッパーなどの古代遺跡から、ヨーガ行者の坐像のようなものが発掘され、それがヨーガの開祖とされているシヴァ神を表わしていると考えられている。そのころすでにヨーガの瞑想や呼吸法などを実践していたと推測することができる。 しかし、わたしの個人的な見解では、ヨーガはさらにはるか以前から実践されていたのではないかと思う。ヨーガのアーサナ(ポーズ)や呼吸法、瞑想法などは、生涯を生き抜く上で必要不可欠なテクニックだと、わたしは認識している。 人生で重要な選択を迫られたときに人は「沈思黙考」する。これがすでにヨーガの瞑想法なのだ。重要な仕事をするときには、人は雑念を払いその仕事のことだけに集中する。これはヨーガのダーラナー(集中)というテクニックだ。何かに集中し、一つのことに真剣に取り組むときには、呼吸を落ち着ける必要があるが、これもヨーガのプラーナーヤーマ(呼吸法)なのだ。 敢えてヨーガという言葉を使わなくても良いのだが、人生を生き抜くためにごく自然に使っているのがヨーガのいろいろなテクニックなのだ。わたし自身どこかのヨーガ道場に入門して覚えたのではなく、ごく自然に身体を動かしていたし、ごく自然に呼吸を整えていたり、瞑想的な時間を過ごしていた。この段階ではヨーガという言葉も知らなかったし、ヨーガのテクニックを一つも知らなかった。おそらく太古の人たちも同じように、現在ヨーガと呼ばれているテクニックをごく自然に使いこなしていたのだろう。 ヨーガの目的はサンスクリット語で「ムクティ」または「モークシャ」と呼ばれていて、日本語には解脱(げだつ)と訳されている。人間としてのあらゆる勉強を終えたことで輪廻から解放されて、もう生まれ変わらなくていいというのがムクティである。 解脱の専門的な解釈はさておいて、「解脱する」というのを判り易くいえば「理想的な死に方をする」ということになる。「理想的な死」というのは安楽死のような死に方のことではなく、死に至るまでの生き方次第で理想的な死が得られる、という意味である。 では、どういう生き方をすれば「理想的な死」が得られるのだろうか。 ヨーガでは「絶対的自由」という表現を使うが、人間として学ぶべきことをすべて学び、やるべきことをすべてやり終えて、現世に対する未練も執着もなく、これ以上肉体を持った人間として生きる(生きさせられる)必要がなくなって迎える死のことである。 ヨーガの聖者のなかには実際にマハー・サマーディ(大いなる悟り)と呼ばれているそういう死に方をしている人たちがいる。 「理想的な死」であるマハー・サマーディを得るための手段としてヨーガがあるということは、言葉を換えれば、そこに至るための「理想的な人生」を歩むための手段としてヨーガがあるということになる。 そこで今度は、「理想的な人生」とは何なのか、について考えてみよう。人それぞれに人生観が違い、価値観が違うので簡単にこれが理想的な人生だ、と断言することはできない。 あり余る金銀財宝に囲まれて暮らすのが理想的な人生だ、という人もいれば、世界中で一番権力のある地位を得るのが理想的な人生だ、という人もいる。 しかし、たくさんの金銀財宝を持っていれば、それが減りはしないかと悩み、だれかに取られないかと悩まされる。金銀財宝さえ持っていなければ、そんな悩みは生じない。 最高権力者の地位に納まったとしたら、いつその地位から追い出されるだろうか、と心配になる。一体だれが自分の地位を狙っているのだろうかと、ビクビクしながら毎日を送ることになる。何ひとつ権力がなければ、そんなくだらないことに脅かされることもない。 また、生きていくのに困らない程度のお金と、家族に囲まれて暮らすのが理想的な人生だ、という人もいれば、美食三昧に明け暮れるのが理想的な人生だ、という人もいる。 生きていくのに困らない程度のお金でさえ、減るしなくなる。家族とはいつかは別れる。どんなに美味しいものを食べても、腹は減るし、もっと美味しいものを食べたいという欲がふくらむ。金銭欲、権力欲、食欲……この世で何を手に入れても、もっと欲しいという欲はとどまらない。 そこでヨーガ行者は、「あらゆる欲がなく、あらゆる欲が生じないことが、最も満たされた状態なのだ」という考えに至る。ヨーガ行者は思考ではなく、瞑想体験のなかからそのことを知る。 そして、あらゆる欲が生じない、最も満たされた状態でいることこそが、理想的な人生だ、という結論に達する。 生きているうちに、あらゆる欲が生ぜず、大いなる悟りを得た人をジーヴァン・ムクタ(生前解脱者)という。それは「無欲になりたい」という欲も消え、「解脱したい」という欲も消えた後にやってくる。 ヨーガ書を読み、解脱の研究をし、多くの知識を蓄えてもジーヴァン・ムクタにはなれない。「私は解脱した」といえば、それは自己顕示欲の表れであり、欲は消えていないことになる。解脱は本人の主張で成り立つのではなく、利害関係のまったくない第三者が認めることで、真実味を帯びてくるものなのだ。 だから、新興宗教の教祖が解脱したといっても、あまり信憑性がないのである。なぜなら、その教団の信者がそう主張しているか、場合によっては教祖自身が「私は解脱した」とか「私は悟った」というケースもあるからだ。 ジーヴァン・ムクタ(生前解脱者)というのは、徳の高い人に対する賞賛の意味合いで使われる表現である。本当の解脱は「死後二度と生まれ変わらない」ということなので、実際には死んだ後に結果が出るのだ。 ヨーガの目的は解脱にあるのだが、ヨーガを実践する人は、健康を回復したいとか、精神修養やスリムなスタイルになりたいなど、さまざまな目的をもっている。ヨーガを継続的に実践すれば、そのいずれの目的でも達成することができる。 ヨーガには神様に対する信仰を日々の修行としているバクティ・ヨーガや、瞑想が中心のラージャ・ヨーガ。社会生活の中で修行を続けるカルマ・ヨーガや、日々お経を唱えるジャパ・ヨーガなどがある。そのいずれの流派も解脱を目指していることに変わりはない。 その中で肉体を操作することから入るのがハタ・ヨーガという流派だ。どの流派でも解脱に至れる可能性はある。しかし、人間は死の瞬間まで自分の肉体と付き合い続けることになるので、ハタ・ヨーガを実践することは非常に重要なのである。 瞑想を専門とするラージャ・ヨーガの人が、しっかりとした瞑想ができないということがある。しっかりとした瞑想ができる、というのは、自己観察がしっかりとできる、ということである。長時間坐り続ける瞑想は、往々にして自分を見失うことがある。瞑想をしているつもりが、妄想になったり、幻想になったりしても、自己観察能力がないと判らず、よい瞑想と勘違いしてしまう。 そのときに、自己観察能力があると、そういう状態になる前にしっかりとした瞑想状態に戻せる。ハタ・ヨーガを実践している人はその自己観察能力において卓越しているのだ。 ラージャ・ヨーガは瞑想で解脱に至れるはずなのだが、実際にはそのレベルまで至れる人はほとんどいないのが現実である。ハタ・ヨーガという肉体のコントロールを伴うものは別だが、肉体のコントロールを伴わないラージャ・ヨーガの場合は、行法の結果があまりにもあいまいすぎるからである。 そのことはバクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガなど、その他のすべてのヨーガについてもいえることだ。もしバクティ・ヨーガで確実に解脱に至れる、という何かがあれば、ヨーガ行者はバクティ・ヨーガを実践するだろう。 代表的なヨーガ経典『ヨーガ・スートラ』は解脱に至る八つの階梯を説いている。その第三番目のアーサナ(坐法)、第四番目のプラーナーヤーマ(呼吸法)、第五番目のプラティヤーハーラ(制感)、第六番目のダーラナー(集中)という四つの階梯は、すべてハタ・ヨーガの修行なくしては得られない。 漠然と瞑想していて解脱が得られれば楽なものだが、現実はそれほど甘くない。 小学生の夢ならば、大会社の社長になりたいでも、ジャンボ機の機長になりたいでもかまわないが、現実に社長やパイロットになるには、相当の努力が必要になる。単に飛行機が好きだからといってパイロットになれるわけではないし、突如大会社の社長の椅子が舞い込んでくるわけでもない。 目的達成のための努力をコツコツと続けなければ、社長にもパイロットにもなれない。同じようにハタ・ヨーガのような地道な努力をしないで漠然と瞑想をしていては、解脱を得ることはできない。 なぜそうなのかというと、瞑想を続けても、信仰を続けても最終的に肉体に対する執着からは解放されないからだ。ハタ・ヨーガで肉体をコントロールし、肉体を大切に扱い、肉体の存在のすべてを知り尽くすことで、完全に肉体に対する執着から解放されるのである。 そのレベルに達するまでには、現世のあらゆる執着から解放されてしまう。そして最後に残るのが肉体に対する執着だけとなり、それもハタ・ヨーガに熟達すれば解放されることになる。 解脱に向けての修行には、ハタ・ヨーガが必要不可欠だが、一般の人にとっても、ハタ・ヨーガは重要なテクニックである。どんな職業の人でも、どんな地位の人でも、自分の肉体との縁は生涯切ることができない。死の瞬間まで付き合うことになる肉体なのだから、常に最良の状態にしておくべきだろう。そのためのテクニックとして、年齢や身体の固さにかかわらずハタ・ヨーガが役立つことは間違いがない。 これからの人生を謳歌するための道具としてハタ・ヨーガを身につけてもらいたい。 |